回顧と前進

第8話 戦時色強まる業界

『松本望著「回顧と前進」』

昭和20年8月15日 ~ 全身の力が抜け涙こぼれる ~

昭和20年(1945)8月15日は、われわれ日本人にとっては、忘れることのできない屈辱の日になりました。

日本の放送史上かつて例のない「玉音放送」が行われたのです。

私は家族を疎開させていた海老名で、天皇自らが戦争の終結を宣言した、この歴史的な放送を聞きました。

前の日、明日正午に重大放送があるから聴き洩らさないように、という放送局からの予告がありました。

それはおそらく終戦の放送らしいという噂でした。

いくら予知していたとはいいながら、やっぱりそうだったのかと思うと、私は泣けて仕方がありませんでした。


湯沢スキー場に家族と1泊のスキー旅行。昭和17年新春の撮影と思われる

直接銃をとって戦ったわけではありませんが、無念の思いとやっと終ったのかという気持ちが交錯して、全身から力が抜けていくのがわかりました。

これから何をすればよいのか、どうなるのか何も考えが浮かんでこないのです。

茫然自失というのは、こういう時のことを言うのでしょう。

その日は、一日中何をする気もなく暮れてしまいました。

翌日、音羽町へ帰りましたが、空襲の心配はなくなったものの、先行きに対する極度の不安からねむれない日が続きました。

そんなわけで、焼けた倉庫の後片づけや整理などに日を費やしていたのです。

そのうち、占領軍の先発隊が厚木基地に進駐。8月30日には連合軍最高司令官のマッカーサー元帥もやって来るという噂が伝わりました。

疎開先の海老名は、厚木基地のすぐ近くですから、家族のことが心配でたまりません。

そこで、さっそく8月中に東京へ引き揚げさせました。

学徒動員で軍需工場へ行っていた誠也や冠也も、みんな音羽の家に帰ってきました。

久々に家族全員で一つの食卓を囲むことができました。

秋も過ぎる頃になると、田地君や谷山 十四男君らも次々と軍隊から帰ってきました。

彼らには雑司ヶ谷の家に入居してもらいました。

多くの人々が空襲で住む家や働き場所を失ったのに、私のところは本社と自宅、工場、それに雑司ヶ谷の家も戦災から免れたのです。

戦後2、3年たっても、よその会社が建て直しに手間取っていたのにくらべて、福音電機が割合順調に復興できたのは、これらの家屋や工場の施設が残っていたからなのです。

本当に不幸中の幸いだったと思っています。

終戦後、しばらくして気持ちが落ち着いてきますと、これからの仕事や生活に対する不安や希望、そして戦争への反省などがいろんな形をとって私の心をとらえました。

私の知人のある人は、
「日本は戦争に負けたが、われわれは勝ったんだ」というのです。

戦争中は、軍人、なかでも憲兵と警察にはずいぶんといじめられた経験のある人も多いことでしょうが、
「彼等が負けたのだから、これからは彼等と平等になるんだ。われわれの世の中になったんだ」と、革新系の人でも言いにくいようなことを大声で話しているのです。

しかし、私はとてもそのような気持ちにはなれませんでした。

おろかな戦争ではありましたが、誰がどのように始めたのかの善悪は別として、一億総国民が、国策に沿ってともかくも一丸となって戦ってきたことは、まぎれもない事実なのです。

私にしても、翼賛壮年会の団長までやってきたのです。

正直な話、「B29」が撃墜され、敵の飛行士が落下傘で脱出して近所にでも降りてきたら、この竹槍で突き殺してやろうとさえ思ったことだってあったのです。
「汝殺すなかれ」という聖書の教えなど、とても念頭にはありませんでした。

そんなわけで、私も敗戦国民の一人として責任の一端を感じないわけにはいかなかったのです。

人間の心は弱いものです。また群集心理とは恐ろしいものだということを、終戦直後のどさくさした世情の中でつくづく感じたことでした。

戦争と敗戦の悲劇を一度に体験して、私は国のためにも国民のためにも為政者は本当に信望のある、そして力量と良識を兼ね備えた人を選ばなければならないなあ、とあらためて痛感したものです。

軍人のなかには、立派に責任をとって自決した人も数知れませんし、皇居前で割腹した人などもいました。

それぞれの信念をひたすら貫き通したのですから、それはそれで頭の下がる思いがします。

また、戦犯として裁かれ絞首台の露と消えた人々のなかにも、本当に国を思い自分なりの最善を尽くしたが力及ばず、何も語らずに死んでいった人もいたはずです。

占領軍も9月8日には厚木や横浜から東京へ進駐し、総司令部を日比谷の第一生命ビルに設けました。

それより先、9月2日には軍需産業の操業停止命令が発令され、私たちの無線通信工業も、ここに完全に機能を止めることになったのです。