回顧と前進

第7話 燃える独立心-2

『松本望著「回顧と前進」』

東京で再出発の第一歩 ~ 一か月後に家族を呼ぶ決心 ~

大阪の福音商会は、いずれ店じまいすることでもありますし、また、なんだかんだといっても、私が独立してはじめてスピーカーを作ったところでもありますから、その名称に愛着を感じていないといえば、それはうそになります。

しかし、そういった気持ちよりも、むしろこのスピーカーという将来性のある仕事を見限って、私を東京に追いやった大阪の方達に対し、そのことが間違いであったことを思い知らせてやろう、という男の意地が強く働いたのです。

まだ、私も血気盛んな若者でしたからね。

そこで社名は、私の信仰と関係ないわけではありませんし、スピーカーで禄を食(は)むのだから、“福を招く音”でも、別に不都合はないだろうと考え“福音”という名称を、そのまま使うことにしたわけです。

パイオニアの商号も、私のものとして続けることにしました。

さて、問屋さんを回って修理品を集めるために、さっそく中古の自転車を1台買い込み、ヴィーナス・カンパニー時代にお世話になったお店をまわり始めました。


当時と思われるスナップ(撮影時期など詳細は不明)

私が予想した通り、皆さんに大変歓迎され、たくさんの修理品を出してくれました。

スピーカーは各社各様の型をしていますから、すぐには修理部品の間に合わないものもあって、なかなか大変でした。

しかし、どのスピーカーはどこで作っているか、どの部品はどこへ行けば手に入るか、そこは良く知っていましたから、修理に使用する部品類は安く手に入れることができました。

入手不可能なものは、手作りで間に合わせたり、輸入品などは、全然補修部品がないのですが、なんとか鳴るように仕上げることができました。

とにかく私一人ですから、忙しくててんてこ舞いです。

上京して1か月ほど経ったころ、これならいける、という目安がつきましたので、大阪から家族を呼び寄せようと決心しました。

その時の私の心境は、決して安穏(あんのん)なものではありませんでした。

このことは、当時の家族との文通にも表されています。

昭和12年11月
明日からお得意まわりをしてきます。
ただ廻ってくるだけでは何にもなりません。1本に20銭、30銭の実収をあげなければ、と思うと、今まで考えたことのない苦労が身にしみます。
しかし、空想に近い理想よりも、この事実が理想に近いものを産み出すだろうと信じます。

望より

いま読みかえしても、当時の私自身のひたむきな姿が思いだされます。

大阪の十三の家へ帰って、一家上京の決意を語ると、千代も賛成してくれました。

勿論、子ども達も大喜びです。

早速、引っ越しの準備にとりかかりました。

目ぼしいものといっても別にありませんでしたが、家財度具のほとんどを売り払って金に換えました。

いよいよ上京するというので、畑原の家族と京都の千代の実家に挨拶に行きました。

千代の父母と一緒に夕食をしながら、よもやま話をしたあと、義父が、
「おまえ、いくら金持っているんや」と聞きました。
「200円あります」
「200円あるか。じゃ、あと200円、おれが出してやろう」と言って、200円出してくれました。しかし、
「あのな。この200円は、おまえにやるのと違うで。貸してやるんやで。儲かったら、できるだけ早く返すんだな」と念をおされました。

合わせて400円。これが上京の資金です。

大いに助かりましたが、私は義父の教訓を肌で感じとりました。

もしも、私がこの時500円持っていたとすれば、義父は恐らく500円出してくれていたと思います。

これは銀行と同じことで、義父とはいえ、一文もない私には餞別はくれても金を貸すようなことはしなかったでしょう。

すべて自分の力や信用に応じて、外からの援助も受けられるということを、上京に当ってまず、義父に学んだのです。

昭和13年(1938)の年が明けるのを待つようにして、私たち一家7人は上京しました。

長男の誠也は小学校3年生、次男の冠也は1年生、長女の真也子が6歳、実也子が5歳、三女の嘉也子は、やっと1歳になったばかりでした。