回顧と前進

第6話 揺籃期のラジオ業界

『松本望著「回顧と前進」』

ヴィーナスに入社 ~求めていた仕事ができる喜び~

ちょうど、そんなどん底の頃です。

神さまも、程よい頃と思われたのでしょうか、信濃橋で電気問屋をしていた岩井 卯之助という千代の叔父に当る人から私は呼び出されました。

何用かと出掛けていきますと神戸の須磨に、ダイナミックスピーカーやピックアップを作っている神玉商会というのがある。そこから業界に精通したセールスマンを頼まれているのだが、勤める気はないか、という耳よりな話でした。

即座に「お願いします」と返事して、その足で神戸に飛んで行き神玉商会を訪ねました。

先方も私を高く評価してくれ、早速勤めることに決まりました。

神玉商会へ就職できたことは本当にうれしく、感激の一語につきました。


昭和6~7年頃のスピーカー。
((1)辻本電機製、(2)ライト、(3)ラジオン、(4)ワルツ)

生活の疲れの限界を脱した喜びよりも、私の求めていた仕事ができることになったのですから。

最後のぎりぎりまで望みを捨てず、耐え忍んできてついに与えられたのです。

妻もよろこんでくれました。神戸の父母も、京都の父母もみんな心から祝福してくれました。

私は、早速単身赴任しました。昭和9年(1934)、私が29歳の春のことです。

会社は、須磨の電車通りの若宮町4丁目にありました。

2階建店舗ふう、三軒ぶっ通しで一部が事務所、2階の奥に支配人の井上夫妻が住んでいました。

工場に使われていたのは、そのうち80坪ぐらいだったでしょうかね。

従業員は20人くらいで、普通の住宅を改造した小さな町工場でした。

見たところ小さな会社ですが、やっている仕事は、当時としては時代の先端を行くハイカラな音響機器メーカーだったのです。

この神玉商会というのは、神尾という無線技師と資金を出している玉田という二人の姓を一つずつ取って社名にしたものです。商品は「ヴィーナス」という商標で売っていました。

玉田という人は船会社向けの石炭商で、ひと山当てた成金だったそうですが、温厚な紳士でした。

一方、無線技師の神尾という人は、痩せていて神経質な顔の人でした。

自称コロンビア大学で学んだというなかなか器用な男でしたが、品性に欠けるところがある人でした。

玉田さんがやってくると、あわててソファから下り中腰でかがみ込んで話をするくせに、玉田さんが帰ると、途端に、 「玉のやつ、欲ばっかり深くて」 と悪口を言ったり、猥雑な言葉を平気で吐くという私の一番嫌いなタイプでした。

神玉商会は、猿真似的な技術でありましたが、音響機器の国産メーカーが少なかった時代に、大理石のカーボンマイクロホンや金属製のボタンマイクロホンなどを作っていたのです。

その当時、NHKでさえカーボンマイクロホンを使っていたのですから、相当高級な品物を作っていたといえるでしょう。

また、その頃ダイナミックスピーカーをつくっていたのは、ワルツ、センター、ラジオン、それにヴィーナスなどです。

とりわけ有名だったのは、村上商会のワルツです。

社長の村上 得三さんは金物問屋の息子さんで、朝顔型のラッパ時代からはじめて、マグネチックスピーカーも数種類出しました。

ワルツがダイナミックを作ったのは、確か昭和6~7年(1931~2)頃からですが、その頃はまだ米国製マグナボックスの模倣品でした。

スピーカーの前面にコーン紙を保護するため、野球のキャッチャーがかぶるマスクのような鉄板のプロテクターがついていました。

8インチ55号、6インチ59号などがとくに売れていました。

ヴィーナスのダイナミックスピーカーにしても、米国製のローラーを真似た鈴蘭型のヨークの模倣品です。

恥も外聞もない物真似全盛時代でしたからね。

それから間もない昭和10年(1935)に、ラジオン電機の辻本さんが作られた8インチのダイナミックは完全なオリジナルで、デザインといい合理的な設計といい、当時としては申し分のない立派なものでした。

神玉商会は、昭和7年頃には早くもピックアップを作っていたのですから、この分野でも時代の先駆者といえましょうが、これも物真似技術によるものです。

原型は、RCAビクターの最高級品である大きなコブラ型で、バランスに鉛の重しが300グラムほどついていました。

マークだけRCAビクターを「ヴィーナス」に変えていたのです。

当然のこと、形はそっくりなのですが、性能は全く問題になりません。

RCAビクターのは、ロー・インピーダンス・ですから、イコライザーがいるのです。

しかし、それが国産技術では物真似の悲しさ、うまくできません。コアのいいのが手に入らないのです。仕方がないので、模倣品はハイ・インピーダンスにしてあるのです。