回顧と前進

第5話 千代との結婚

『松本望著「回顧と前進」』

千代との結婚 ~ さすが頑固な義父も折れる ~

千代は商売上手で、男まさりのしっかり者でした。

電気アイロンの修理ぐらいは朝飯前でした。どの辺でコードが断線しているのか、ヒーターがどこで切れているか、などすぐわかるので修理が上手でした。

お得意さんが停電になり、すぐ来てほしい、などという連絡があると、自分で出かけて行ってヒューズを取り換えてくるのです。

また、京都で博覧会のあった時など、蓄電池の説明をやってのけたこともあるということでした。

父は常に「この子が男やったらええのに」というのが口ぐせだったということです。

洋裁のほうも得意で、高等小学校の頃から自分でやったそうです。

妹の靴下を編んだり、生地を買ってきて、シャツでも何でも、手縫いで作るのです。

家のことも一切、千代が引き受けてやっています。

千代の母は、子どもが生まれても乳が出なかったらしいです。

それに脚気を患っていたので、十四男は、千代が引き取って育てているのでした。

こんな働き者だったので、父は千代を目の中に入れても痛くないほど可愛がっておりました。

大阪の支店も、千代のために出してやったようなものです。

千代の父は、私を信用してくれていたのはよかったのですが、貧乏牧師の子どもぐらいに思っていたようです。

しかも、兄妹も多いということだから、養子にもらってやる、といえば、喜んで来てくれると思ったらしいのです。

ところが、千代の父が、京都の高木商会の支店長を通して聞いてみると、私が養子に行く気は全然ない、ということが分かって、がっかりしたということです。

ところが、もう、そのころの二人は、はっきりと結婚のことを考えるようになっています。

しかし、いざとなると、千代の父は、婿にくるのでなければ絶対許さないというのです。

「嫁にやるくらいなら、なにも、あんな貧乏牧師の息子に行かなくても、ほかに、なんぼでも嫁入口はある。やめとけ。あほらしい」
と言ったということを聞きました。

私は私で、貧乏牧師の息子といわれたのが癪にさわり、
「君と結婚できるのなら、お父さんの年になるまでには、きっとあれ以上の実業家になってみせる。しかし、今の僕には何もない。それでよかったら来てくれないか」
という手紙を千代に出しました。

これで千代も決心がきまり、
「もし、結婚を許してくれへんのやったら、どこへでも出ていってしまうわ」
という命がけの訴えに、さすがの頑固な父も、しぶしぶ許してくれたということです。

しかし、千代の父は最後まで、いまいましそうに、
「こんなことになってしもうて」
と、半ば淋しそうな顔で、ひとり晩酌をしていたということをきいて、私も心にしみるものがありました。

昭和3年(1928)5月16日。畑原の父の教会で、二人の結婚式が、ささやかに行われました。

私が23歳、千代が19歳の時でした。

千代の父は、祖父の喪中であることを理由に、参列しませんでした。

二人の新婚生活がはじまりましたが、決して甘いものではありませんでした。

私は、儲けて返すという条件で、谷山商店から平野町の支店を譲り受け、はじめて自分の店を持ったのです。

私が少年時代から思い続けていた“独立”という念願が、小さい店ながら、かなえられたのです。

名まえを「松本希望堂」と変えました。

といっても、私はこの店に専念できません。

朝早く高木商会へ行き、夕方かえってから妻に、一日あったことをいろいろ聞き、明日のことを相談しあうのが日課でした。

結婚して1年たった昭和4年(1929)の2月27日、長男・誠也が誕生しました。

勤め先の高木商会は、もともと写真機屋ですから、お手のもので、私は、それを安く手に入れて、誠也や、妻を写しまくりました。

休みの日は、奈良や京都あたりまで家族で出かけ、カメラや、16ミリに収めました。

友達や、親戚が寄ってきては、
「えらい景気がいいやないか」
「すごいやないか」
などとおだてるので、自分もついその気になってしまうのです。