回顧と前進

第4話 丁稚奉公から

『松本望著「回顧と前進」』

関東大震災に遭い帰郷 ~ 気丈夫な父も母も涙、涙…… ~

当時、私は、東神奈川駅近くにある小高い丘の、花屋さんの離れを借りて住んでいました。

ここは、おかげで何の被害もありませんでした。

夜になって、丘の下から下界を眺めると、その光景は正に、暴君ネロに焼き滅ぼされたローマを思わせるものがありました。

ローマの街が燃えつづける最中、ネロは自邸のバルコニーで、トロヤ陥落の歌をうたっていたという話を、父から聞いたことがあります。

その時、ネロは何という暴君だろうか、と思っていたのに、いざ自分が眺める段になると、心の隅には、やはり暴君ネロと同じく、
もっと燃えたほうが……。なんと素晴らしい景観……。対岸の火事……。
という心があったからでしょう。

さて、西川楽器の工場もほぼ全滅。

ある人はアルバイトで死体運びをして、相当な収入を得ていた人もいました。

私は、そんなことより、仕事がしたかったんですが、全然、仕事のメドがつきません。

それどころか、食糧事情も悪くなる一方です。

そこで、田舎に郷里のある人は、出来るだけ帰るように、という横浜市条例が出ました。

その代り、郷里までの汽車賃も、途中の食事代もいらない、というよい条件だったのです。

私は、いっそのこと、神戸に帰ろうと決心しました。

無事でいるということは、仮の郵便局が出来たとき、電報を打っておきましたが、とにかく、家族に安心させようと思ったからです。

そして、9月末、いざ帰ろうという段になっても、東海道線は未だ不通。いつ復旧するという見通しも立ってないのです。

そこで、上越線経由で帰ることになり、上野駅に向かって歩きはじめました。

街の惨状は、目を覆うばかりでした。

1か月経っているのに、まだ焼け残りの家屋の間からは、煙のにおいとも、何とも得体の知れない悪臭がただよっていました。

足は疲れているし、のどは渇く。

それに第一、腹ぺこぺこです。

途中、おにぎりや、お茶の接待を受けて、1日がかりで、やっと上野駅に着きました。

この時の、おにぎりと、お茶の味は終生、忘れることはできません。

駅は帰郷の客で、ごったがえしていました。

こんなに大勢の人達を、一体どうやって乗せるのだろうかと思いました。

しかも、あとから、あとから、ふえていく一方です。

待っていても、仕方ないので、とにかく上越線に乗りました。

汽車は貨物車です。私が乗った車両は無蓋車です。それに避難民が、鈴なりにぶら下がっているのです。

高崎を過ぎた頃のトンネルだったと記憶していますが、列車の屋根の上に乗っていた人がトンネルに頭をぶつけて何人かが転落しました。

新潟を経て、日本海側の直江津から福井を通り、敦賀から近江へ出て、やっと琵琶湖を見ることができました。

10月の初めとはいえ、日本海独特の寒風に吹きまくられて、手足の感覚もないくらいの寒さでした。

その上、トンネルに入ったが最後、顔は勿論のこと、鼻の穴まで真黒けです。

それでも、うちへ帰りたい一心で、みんなじっと我慢していました。

神戸の駅で降りて、餓えと寒さのために、ふらふらになりながら、やっと家に辿りついたのです。

みんな、びっくりして私のまわりを取りまき、声を立てて泣くのです。

さすが気丈な父も、母も泣いていました。

大地震があったというので、みんな心配して、今日、報らせがあるか、明日あるかと毎日、待っていたというのです。

ひと月近く何の音沙汰もないので、ひょっとすると、死んだんじゃなかろうか、と思っていたところだというのです。

横浜から打った電報は届いてなかったのです。

しかし、まあまあ無事でよかったと、家族みんなで、よろこんでくれました。

それにしても、よくもまあ、こんな真黒な顔になったもんだと、涙のすじの通った私の顔を、かわるがわるながめていました。