回顧と前進

第2話 私の生い立ち

『松本望著「回顧と前進」』

父・松本 勇治-3 ~ 顔色ひとつ変えなかった母 ~

この伝道の旅、つまり桐生町から、足利町の新居までの20キロの徒歩の旅が、今でいう新婚旅行であったわけです。

新しい生涯の門出を記念して、伝道用トラクト(小冊子)を道行く人々に配ったり、家々に投げ入れながら歩いています。

「僕と一生暮らすには、いつも草鞋(わらじ)履きの覚悟でいてくれ」
と早速、母に草鞋を履かせたんだそうです。

和服に草鞋姿の新郎新婦は、人から見れば異様だったことでしょう。

しかし、二人にとっては、それは信仰以外の何者でもありません。

ところが、結婚後1か月にして、早くも食べるものが無くなってしまったのです。

まる4日間、水だけ飲んで餓えをしのいだということを、あとになって父母から聞いたことがあります。

しかし、母もさる者。かつての旗本の娘と自負するだけあって、顔色ひとつ変えなかったそうです。

ひたすら神を信じ、夫を信じきって、ついていった母の姿が目に浮かぶようです。

この二人の信念や生活態度が、そっくり、そのまま、いまの私達夫婦に受け継がれているようにも思われます。

翌35年(1902)8月、父母は神戸に移っています。父は、ここの居留地で歯科医を開業しながら伝道していた、プレマス派の米人、ハロルド・シュレード氏の助手となり、氏に日本語を教えたり、翻訳などをしながら、一緒に伝道を続けていました。

シュレード氏は、歯みがき粉の製法にくわしかったようで、父は後に、その製法を習っています。

今でこそ、チューブ入りの練り歯みがきが、いくらでも売り出されていますが、当時としては、歯みがき粉でさえ珍しい時代でした。

この歯科医の一室で長男が生まれました。

はじめて二人は、子の親になったのです。

早速、勇治の父信作と、養父の太助の一字ずつをとって、信助と名付けました。

やがて父母は、葺合区の二宮町に家を借りました。

二階建ての家で、ここを「博愛苦学舎」と名づけ、数名の苦学生を収容し、昼は歯みがき粉の製造と販売、夜は英語や漢文を教え、かたわら、路傍伝道をして歩いています。

それが、やがて「ヤソの歯みがき屋」ということで評判になり、かなりの得意先をとるまでになったようです。

このことを伝えきいた養家では、大いによろこび、キリストをやめさえすれば養父の遺産を、そっくりやろうと言ってきたそうです。

しかし、物質欲のない父には何のききめもなく、きっぱり断って、相変わらす貧乏をしながら伝道をつづけています。

それだけでなく、渡米前の旧主からは、月給百円で再三懇望されたのに、これも断っています。

当時の百円といえば、いまの相場では、50万円以上にもなるでしょうか。もったいないような話しですが、父にしてみれば、月給で買われたら、せっかくの伝道ができないと思ったのでしょう。

私が小学校4年生の頃、同信会と父との間に、集会のあり方について論争が起こったようです。

父は、主イエス・キリストを信じる者はみな兄弟姉妹である、と考えているのです。

だから、苦学舎には、いろんな宗派の人達が集まってくる。

それに対して、神戸同信会は心よからぬ思いを持っているのです。

即ち、「同信会に属さない者は、真のクリスチャンではない」という偏狭な立場を固守しているのです。

父は、罪を悔い改め、信仰を告白する者には洗礼を施し、聖餐にあずからせていました。

ところが、これに対しても集会の幹部は、新しい受洗者は未熟だから、聖餐に列する資格がないというのです。まだ他にも原因がありました。

このために、いろんなトラブルがおきて、とうとう父は、神戸の集会を去って、他に新しい伝道を始めるということで、折り合いがついたのです。

そのために父は、せっかく盛んになりつつあった、博愛苦学舎を解散して、西宮に移ることになるのです。

父の、この一徹な信念が、私にも影響しているように思われます。

父と教会のトラブルについては、私の小学生時代のところで、くわしく述べています。

とにかく、父は同信会に属していた頃から、同派の信者だけでなく、他の教派の人々とも親しくしていました。

ことに、無教会派の人々に知己が多かったようです。

たとえば、江原 万里、黒崎 幸吉、矢内原 忠雄の諸氏とは、信仰の上だけでなく、家庭のことでも相談に乗っていたようです。

とくに、黒崎、矢内原両氏の再婚には相当、尽力しています。

朝日ジャーナル連載の「矢内原 忠雄伝」(昭和50年9月5日号)に、父・勇治のことが、くわしく記されていたのを、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。

黒崎氏は、新居浜に来る前は、大阪の住友本社に勤務していたようですが、そのころ、プレマス兄弟団の父と知り合い、親交を結んでいたようです。

内村 鑑三の無教会主義と、プレマス兄弟団の主義との間も、かなり共通点が多かったようです。

そういう関係で、父はよく神戸から新居浜に来て伝道生活をしていました。

基督同信会発行の「おとづれ」という大正8年5月号には、父・松本 勇治が、同じ年の2月に新居浜を訪れた際に書いた記事が掲載されております。それによりますと、
『余は殆ど連夜、聖書の講義をなす。・・・・2月21日は紀元節にて休中なり。午後2時より集まり、左の兄姉9人が御名により、バプテスマを受けられたり』
とあって、黒崎氏をはじめ、9名の名まえが挙げられております。

その中には矢内原 忠雄、同愛子、同悦子も含まれております。

つまり、矢内原氏は黒崎氏らと共に、父・松本 勇治から洗礼を受けたことになります。

内村門下の偉材であり、昭和時代の無教会派の中心であった黒崎氏と、東大総長も勤め、学者であり伝道者であった矢内原氏など、こういう方々とこのような縁があったことは、父の名誉でありましょう。

黒崎氏といえば、有名な書家ですが、父は亡くなる1か月前に、墓標を書いてもらい、枕辺に置いていました。

父が亡くなったのは私が東京へ出て3年目、仕事も順調に進んでいた時でした。その昇天の有様は、息子の私からみても、あまりに見事というほか形容しがたいものがありましたので、節を改めてか書かせていただきます。