回顧と前進

第14話 好きこそ物の上手なれ-2

『松本望著「回顧と前進」』

人々の善意に支えられて ~ あとがきに変えて ~

今年(1977)は、株式を上場してから15年、株式会社になってちょうど30年に当ります。この間、パイオニアも皆様方のおかげで、私の想像だにしなかった会社に成長させてもらいました。

今期(31期)の決算を見ますと、資本金42億円、売上1,645億円、税引き利益は百億円を超えており、また、従業員も6千名近くを数えるまでの会社に発展しております。

つい5~6年前まで売上500億円をめざしていたことを思えば、全く夢のような気が致します。


家族や孫たちに囲まれて(昭和51年正月)

昭和49年1月には、目黒駅前に地上12階建ての白亜の本社ビルの竣工を見ることができました。

この建物を鹿島建設と契約したのはオイルショックの直前でありましたが、おかげで非常に割安にすませることができました。

これも幸運であったといえるでしょう。

しかし、これらの発展も現社長以下の功績によるところが多く、このことについては他日、誰かが語ることもあるでしょう。

空想ばかり描いていた少年時代。

志に燃えていた青年時代。

苦難にあえいでいた浪人時代。

長くもあり、そして短くも感じた過去を振り返ってみますと、みんな懐かしいことばかりです。

大阪から上京した当時、風来坊にも等しい私のために、仕事場を提供して下さった妹尾さんや三浦さん、そして、資金を貸して下さった山口 英次さん。

これらの方々から受けたご恩については、この回顧録の初めの稿で触れましたが、このほかにも、陰に陽に、私の力になって下さった大勢の人々がおられるのです。

東京で独立して間もなく、大阪からスピーカーの部品を買っていた時代、一番先に現金取引から月末払いにして下さった新谷工業所の新谷 俊夫さん。終戦後の混乱時代、福音電機の復興に力を貸して下さった豊島製作所の木本 宗吉さんや、大阪の東洋コーンの河尻保さんなどはいまでも引続きお取引を戴いております。

そのほか、故人になられた豊国機工の永野 豊吉さん、同社の現社長・徳永 義治さんなど、数えあげれば、それこそ枚挙にいとまがありません。紙面の都合上、これらの皆さんに、いちいちお名前もあげてお礼を申し上げるわけにはいかないことをお許し下さい。
また、多くの優秀な役員や社員に恵まれたことも私をして今日あらしめたものと、心から感謝しています。

「すべての事が神によりて、お前には益になる」と教えてくれた父の言葉通り“禍”も 益となって“福”に結びついてきたことは、思えば幸せなことでした。

本来の私は、好奇心が強く、自制心の弱い人間なのです。何かしていないと、おちつかないほどせっかちな性質なのです。

雀百まで何をしでかすかわかりません。この後も、どのような失敗をやらかすかも知れないのです。

しかし、仮に、そういうことがあったとしても、それは私個人のことで、会社とは関係のない場で行われることでしょう。

今日この頃は、ゴルフのパターで実用新案をとったり、4、5年先には、自宅の庭に蛍が自然発生することを夢見てその幼虫を育ててみたりしています。

おかげで、健康にも恵まれ、家内も元気です。二人の息子、四人の娘たちもそれぞれところを得て幸せに楽しくやっております。

孫も13人になりました。クリスマスやお正月、あるいは何かあるときなど、全員が集まりとても賑やかです。誠にありがたいことだと思っています。

最後に、数々の資料を提供して下さった方々、「電波新聞」に連載中にご教示や励ましをして下さった皆様に、紙上をお借りして、厚くお礼申し上げます。

◇   ◇   ◇

このたび「電波新聞」連載させていただいた「回顧と前進」を単行本にまとめるに当り、同社の平山社長に感謝申し上げます。
時あたかも、私が独立して40年、そして妻・千代と結婚して50年の金婚式の年に当ります。
このような年に「自叙伝」を刊行できるのは、何か格別のご褒美を頂戴したようで、いっそううれしさを感じ、爽やいだ気分の今日この頃です。
ほんとうにありがとうございました。

昭和53年5月吉日

世田谷・岡本にて   著者