回顧と前進

第14話 好きこそ物の上手なれ-1

『松本望著「回顧と前進」』

“音響”以外の二つの仕事 ~ 福音印刷と幼児教育に奉仕する松本学園 ~

パイオニアが以前「福音電機」という社名であったことも、だんだん忘れられつつあります。また、戦後間もなく私が「福音印刷株式会社」を設立したこともご存知の方は少ないようです。

私が印刷の仕事に関係するようになったきっかけというのは、教会の伝道用文書の印刷について、私の弟・松本 頼仁から相談をもちかけられたことに始まります。

頼仁は、戦前、朝鮮の鎮南甫で牧師をしていました。

現地徴兵で出征し、戦後、復員して東京の私のところに来ていたのです。


クリスマスパーティーでサンタクロースに扮する筆者

彼は亡父の遺志を継ぎ東京で教会を開設することになりました。

田園調布の出口 一重さんという方のお宅の一室を借りて、ここを「天城教会」と名づけたのです。

この教会で文書伝道用の「初穂」という小冊子を発刊することになったのですが、たまたま信者の中に、印刷に経験のある人がいました。そこで、私は失業救済の意味もあって、「初穂」の印刷を主な目的とした小さな印刷屋を開業することに手を貸すことにしたのです。

渋谷のガード下の、4坪ほどの狭い場所にさっそく菊四裁印刷機と手フート印刷機を入れて、「初穂」のほか、名刺、チラシ、伝票などの“小物印刷”をはじめました。

その後一時期、音羽の福音電機第一工場前の私の持ち家を提供したこともありましたが、昭和24年(1949)、池袋に工場を借りて資本金50万円の「福音印刷」を設立したのです。

私がこのように印刷をやらせてみる気になったのも、その昔神戸のサワタニ文具店に勤めていた頃、門前の小僧よろしく印刷についての知識を多少身につけたことが影響しているともいえましょう。そのうち、大型の四六全版印刷機を入れて「電波新聞」の印刷を引き受けることになったことは前に述べたとおりです。その後、いろいろと苦労はあったものの、いまでは私の“第二の故郷”音羽の地に5階建てのビルを構えるまでに成長しました。

もちろんパイオニアの仕事もしていますが、主力をオフセットに切り替え、美術雑誌なども手がけるなど東京でも有数の高級印刷技術を誇っています。

私は、ここの会長(当時)になっていますが、経営には一切関与していません。三女の嘉也子の夫である名村 義人が青年社長としてユニークな経営をしています。

いまひとつ、私のサブの仕事として学校法人「松本学園」のことがあります。

亡父の遺志により、田園調布で教会をやっていた弟の頼仁が、昭和25年(1950)、アメリカへ留学することになりました。

このため、私の妹・睦の主人である笠利 尚君が、その留守を預かる牧師になったのです。

一時は、いろいろと事情もあって、福音電機の敷地内に教会堂を建てるなどして布教活動に当っていました。

そののち、4年ぶりに頼仁が帰国しましたので、笠利君夫妻はこれを機に幼児教育を志し幼稚園を設立したいというのです。そこで、私も応援することになり武蔵野市吉祥寺に300坪ほどの土地を買い求めました。「武蔵野中央幼稚園」といって、初めは園児も60名足らずのものでしたが、昭和45年(1970)には建坪400坪の近代的な園舎に建て替えています。

また同時に、学校法人「松本学園」としての認可を受け私が理事長に推されました。

この「松本学園」は、その後町田市に「サフラン幼稚園」を開設しています。

牧師の弟・頼仁が、いまはここの園長をしており関東一といわれる大きな団地の中にあります。

このほか、吉祥寺のほうの幼稚園の隣接地に650坪ほどの土地を入手できましたので、「武蔵野第二中央幼稚園」を昭和52年(1977)4月に開園しました。

この結果、この三つの幼稚園で830人の園児をお預かりすることになったのです。

このように発展できたのも、生涯を幼児の教育に賭けられた数多くの奉仕者がいたからであり、私などはお手伝いに過ぎませんでした。