回顧と前進

第14話 好きこそ物の上手なれ-1

『松本望著「回顧と前進」』

社外で貢献した事業 ~ パイオニアの成長を支える ~

話はだいぶ前に戻りますが、昭和30年(1955)頃のことです。

株式会社「日本オーディオ」を設立して、音響装置を手がけることになったときのことですが、それには特殊なキャビネットをつくらねばなりません。

しかし、適当な木工屋さんが見つからないので、自社でつくることにしたのです。

そこで、誰かよい人はいないかと探しておりましたら、大阪の「日本橋」に電蓄用のキャビネットを納めている守谷 智氏を知ることができました。


昭和45~46年(1970~71)頃の静岡工場の生産ライン

その技術と人柄を見込んで東京へ来てくれるようお願いしましたところ、守谷氏はさっそく内弟子の小出 恒次君を連れ、一家をあげて上京してくれたのです。ここに守谷氏を中心として「日本オーディオ工業」株式会社がスタートしました。それは昭和31年(1956)4月のことです。

実をいうと“木工”との縁は深いのです。私が横浜の西川楽器で徒弟をしていた時から、自分の手でピアノやオルガンをつくってみたいと思っていました。

神戸で一時期斉藤家具店に勤めていたことも、けっして無縁ではありません。

しかし、本当のところ、木工技術というものがステレオ事業にとっていまほど重要なものになろうとは思ってもいませんでした。

日本オーディオ工業の工場は、新宿区下落合の以前当社がテレビを研究していたところを当てました。ここでの主な作品としては、パイオニアがブラッセルの万博でグランプリを獲得した無指向性4ウェイスピーカーシステムのキャビネットがあります。

また、昭和45年(1970)、大阪で万国博が開かれた時、パイオニアでも“お祭り広場”などの音響装置を手がけましたが、これにも日本オーディオ工業の技術が生かされています。

ところで、設立当初は音響装置用の特殊なキャビネットだけをここでつくらせる考えでいました。しかし、そのうちハイファイ・スピーカーをキャビネットに入れて売る、いわゆる“スピーカーシステム”が市場の人気を集めるようになってきました。

そこで、パイオニアのスピーカーシステム用としてのキャビネットも手がけるようになったのです。

このため、敷地いっぱいに落合工場を建て直して、かなりの増産を行うようになったのですが、それも手ぜまになり、将来の発展を見越して埼玉県の鳩ヶ谷に約2千坪の土地を購入したのです。

ここに千坪ほどのスピーカーキャビネットの専門工場をつくり、守谷氏の考案による独創的な生産方式を採り入れました。

これによって、昭和42年(1967)頃から、ステレオの主流にのし上がったセパレート型のキャビネット需要に応える一方、原価の大幅な低減をみることができ、パイオニアの成長に大きく貢献したのです。

この日本オーディオ工業はその後「パイオニア音響」と改称しましたが、昭和44年(1969)、ステレオの一貫工場としての「パイオニア静岡工場」が完成をみたことにより、ここに木工部門も集約することになりましたので、会社を整理、解散しています。

ところで、落合の日本オーディオ工業が鳩ヶ谷へ移った跡に「モンド」という会社をつくりました。面白そうなものがあるとやってみたくなるのが私の癖です。

しかし、ハイファイイメージを落とすようなものはパイオニアでは作らない考えでいましたから、私個人の会社をつくったのです。

失敗に終った、例のトランシーバーの会社やテレコの「美音電子」に勤めていた人たちの中には、私が面倒を見なければならない人もいましたから、大阪の元福島電機に勤めていた山角 敬一君を専務にして始めたわけです。初めのうちは、貿易商の注文でバイヤーズブランドのリム式テレコを月産6、7千台ほどつくっていました。

ここでは、私が今でもいいアイデアだと思っている“オモチャ”のようなテレコもつくりました。

これは、極彩色のきれいなオームが止まり木に止まっていて、その下の台に小さなエンドレステレコが組み込んであるのです。

30秒ほど録音でき、再生時にはオームの口が言葉に合わせてパクパク開きます。

外国の商社がXマス用に数万ダース注文しようという話まであったのですが、値段が折り合わず成立しませんでした。

オモチャメーカーとわれわれとは、製作概念がだいぶ違うようです。