回顧と前進

第14話 好きこそ物の上手なれ-1

『松本望著「回顧と前進」』

好奇心による成功と失敗 ~ 高い月謝だったが、良い教訓 ~

私の好奇心から引き受けたもう一つの仕事にアンサホン(留守番電話)のことがあります。

昭和35年(1960)の半ば頃、ある大会社から下請け的にやってくれないか、と話があったのです。サンプル的な試作品はあったのですが、量産化するにはなかなかむずかしいものでした。

それでも、翌36年の初めには月産300台にこぎつけ、その年の暮には月1千台ほど生産できるまでになりました。

オーディオとは直接関係のない商品ですから、もともと深入りするつもりはなかったのですが、発注先の大会社がこの事業の先行きにメドがついたと判断したのでしょう。自分のところでつくる、と言い出してきたのです。さんざん苦労をさせておいて、うまくいきそうだから自分のところでやるというのでは、あまりに虫がよすぎるというものです。


好奇心が成功に結びついた「アンサホン」

私は腹が立ちましたから、留守番電話の特許権を持っている橋本コーポレーション社長の橋本 和美氏と実施権の契約を結びました。

さっそく、国内向け機種を開発すると共に、昭和37年(1962)には電電公社に対し認定申請を行いました。

それからも、いろいろと紆余曲折があったのですが、結局、その大会社はこの事業から撤退してしまったのです。同時に「アンサホン」という商標も当社が引き受けることになりました。

そんな事情もあって意地でもと今まで続けてきたのですが、おかげでこの仕事がもとで、次の芽も出て来るなど今後の事業としても大変おもしろい展開になりそうです。

このアンサホンやカーステレオは、私の好奇心が“成功”へ結びついた例ですが、大変な“失敗”を一度に二つも重ねケースもあります。

当社が株式を上場した翌年の昭和37年、2億4千万円の増資を行って資本金を4億4千万円にしました。

このうちの4千万円は時価発行分ですから、そのプレミアムとしても3億円ほどの余分な資金が入ったのです。

この増資によって所沢工場や大森工場の増築、さらには地方の営業所増設などができたのです。

そんなことで少し気がゆるんだのでしょうか、つまらぬことに手を出しました。

当社もスピーカーを納めていたあるトランシーバーメーカーが倒産しましたので、債権者の一人としてこの会社の再建を引き受けることになったのです。いまでこそ“CB”といわれて輸出中心ですが、当時は国内の近海漁業用が主で、各地の漁業組合などに売っていたのです。

当社からは最高責任者を送り込み、将来のCB業界のリーダーを目指して頑張ってもらったのですが、結局新しい芽をふかせることができず失敗に終りました。

いま一つの失敗作は、リムドライブ方式の安物テープレコーダーに属するものです。

ちょっと変わったアイデアで、実用新案を申請中のものでしたが、事務用として使えそうなテレコでした。その事業家のために「美音電子」という会社まで設立したのですが、世間のテレコが高級化していく流れの中にあって安物イメージでは、やはり受け入れられなかったのです。

この二つの失敗には、経営的にも共通したミスがありました。

当時、当社では日本生産性本部からコンサルタントを招聘していろいろと勉強していたのです。

このコンサルタントがいうには「事業部制」を採用し、その部長に責任と権限を持たせたほうがよいというのでその通りにしました。

そこで、この二つの会社にもその考え方を入れて、最高責任者を送り込み思う存分やってもらうことにしたのです。

この事業そのものにも本質的にいろいろと問題点があったのですが、経営の仕方もまずかったのです。また、当社にもこの両社を管理する機能に欠けていた点もありました。

そんなわけで、気がついた時には大きな穴があいてしまっていたのです。

私は自分の非を悟り、この二つの会社を閉鎖することにしました。

当社の昭和38年度における業績伸長率が、前期比で極端に落ち込んでいるのは、この二つのロスがあったためです。

とはいっても「事業部制」を奨めたコンサルタントの言うことは、間違っていなかったと思います。われわれが、いまだパワー不足であったうえに俄か勉強の“付け焼刃”だったのです。

結局、高い月謝につきましたが、良い教訓になりました。

以上は、私の好奇心から始めた事業のうち、社内に持ち込んで成功したものと失敗した例のいくつかですが、次に社外でやらせた事業でパイオニアにとっても大きく貢献した会社の話をしましょう。