回顧と前進

第14話 好きこそ物の上手なれ-1

『松本望著「回顧と前進」』

好きこそ物の上手なれ ~ 女子従業員まで“日本を代表する音” ~

私の次男、松本 冠也(現相談役)は、早稲田の理工学部によって初めて設けられた「工業経営学科」の出身です。卒業後、すぐ東芝の関連会社である東京電気へ就職、当時、流行しはじめていた“噴流式電気洗たく機”の設計に夢中になっていました。

わが家で「フーバー」の洗たく機を買わされたのはこの頃です。

しかし、1年で東京電気を辞め早稲田の大学院へ戻って勉強を始めました。

その頃は一人でも人手がほしい時期だったのですが、彼が正式に当社へ入社したのは昭和30年(1955)の春になってからでした。


所沢工場の生産ライン(年代不詳)

彼の入社は、会社にとって大変プラスになりました。

当時は、まだ“近代経営”からはほど遠かったのです。

そこで、彼とも相談してまず社員教育からやり直そう、ということになりました。

たまたま、スピーカーの日本工業規格(JIS)をとりたいと思っていた時でしたから、品質管理の勉強から始めることにしたのです。そのため、秋葉 黎君を東京都の職業訓練所に通わせ、TWI(職長教育)の資格第一号を取得させました。

その後、ほとんどの幹部がこのTWIの講習をうけることになったのです。

当社がスピーカー業界で初めて「JISの表示」の指定工場になったのは、昭和30年9月のことでした。私が渡米したのはその翌々年です。

ちょうど、「JIS指定」などで、会社全体が新しい生産方式をどんどん採り入れようと勉強していた最中でしたから、タイミングがよかったのです。

それはともかく、私たちの米国視察旅行は、日本生産性本部の斡旋によるものでした。

その縁もあって、当社としてもその後生産性本部の経営指導を受けるようになったのです。

当社担当のコンサルタントには片山 重平氏が決まり、その他多勢の講師から指導を受けたのですが、社員の向学心には眼を見張るものがありました。

中間管理職のためのMTP講習会も盛んにやりました。また、QCサークル活動には、工場の女子従業員まで一人一人が参加して、毎日各ライン別の成果を発表するなど不良率の低減競争です。

こうした努力などが実って、昭和33~34年(1958~59)頃には利益も相当出るようになってきましたから、人材の積極的な採用とその教育にさらに資金を投入していったのです。

この頃、日本生産性本部からコンサルタントとして派遣されていた吉田 貴一君が昭和36年2月、当社に入社しています。彼の指導によって原価計算システムを採り入れたことにより、社員の一人一人が原価意識を持つようになってきました。

また、日本能率教会にもいろいろ経営診断やら指導をしていただきました。

そんな関係もあって、同協会から大森のアンプ工場に講師として派遣されていた堀内 栄一君も昭和36年4月、当社に入社しています。

昭和38、9年頃だったでしょうか、日本電気の小林 宏治社長が提唱していた“ZD運動”にしても、いち早く真似させてもらうなど、よいことは果敢に採り入れていったのです。

このような努力は何も当社に限らずわが国の家電業界のどこもが競っておこなってきたことなのですが、アメリカのそれとちがうところはこれだな、と思うことが一つあります。

それは何かというと、かつて当社のアンプ工場を見学に来ていたあるお客様が、ラインの女子従業員に、
「仕事はおもしろいですか?」と聞いたところ
「私たちは、良い製品をつくる使命がありますから・・・」と答えたというのです。そのお客様は、
「なるほど、よい商品ができるわけですね」としきりに感心し、私までほめてくれたのです。

私は、常に社員に対し、パイオニアの製品は世界各国に輸出され愛用されていることを強調してきました。そして、このことはひとりパイオニアのためだけでなく、日本のためにどのような役割を果たしているかについても機会あるごとに話してきました。

このためか、ラインの従業員一人一人に至るまでが、ビス1本、ハンダづけひとつにも精魂を傾けて作業してくれているのです。

私は、これがパイオニアの強みだと自負しています。

また、この私にしても24、5歳の頃、生まれて初めてダイナミックスピーカーの奏でる素晴らしい音に接し、いまの仕事にとりつかれていったことはこの自叙伝の中に述べたとおりです。

当社には、私と似たような人たちが大勢いるのです。
「好きこそ物の上手なれ」というように、これら大勢の人たちがお互いに研鑚しあいながら今日のパイオニアを築き上げてきたのです。