回顧と前進

第13話 本社移転のあとさき

『松本望著「回顧と前進」』

所沢にスピーカー専門工場  ~ しかし、値引き競争などで苦い経験 ~

当社もこのブームのおかげで、貸し倒れも気にならないほどの好業績をあげ続けることができました。そのうち、早くも建て替えたばかりの四階建ての第一工場が、手ぜまになってきたのです。

といって、3、4階の社員寮を無断で工場につくり替えることは、住宅公団から融資を受けた際の契約条件もあって困難です。そこで、まず公団に借金を返し、そのうえで3、4階も工場にすることを考えました。お金を返せば公団も了解してくれるだろうということで、市中銀行からも多少の借金をして公団の方は精算したのです。

社員寮は他に移すことにしましたが、ついでに屋上へ一階増築し、ここを社員食堂にしました。


昭和35年に完成した所沢工場

この社員食堂は、私がアメリカを視察して廻った時に見てきたある工場の食堂を参考にしたのですが、社員たちは
「社長のアメリカ土産だ」などと言って喜んでくれました。

こうして、3、4階も工場につくり替えたことによって、小型スピーカーの生産は急速に伸びていったのです。その頃、あるお得意さんが、
「ここで、どのくらいつくれるんですか」と聞きますので、
「50万本ほどです」と答えたのですが、
「ああ、そんなにできるんですか」と驚いた様子です。

しかし、その口ぶりからすると、どうも年産だと受けとられていたようでした。

実は、この音羽工場のピーク時には月産60万本ほどになっていたのです。

その後、スピーカーは所沢に専門工場をつくって大量に生産するようになっていくのですが、いま振り返ってみますと、この音羽時代が最も利益率が高かったのです。なにしろ50ミリ口径の売値が、2、3年後にはなんと50円にまで下がってしまうのですが、当時はその4倍の200円以上で売れていたのです。昭和33年10月には、資本金を2千万円増資し、3千5百万円にしました。僅か2年足らずののうちに、倍額以上になったのです。

同年8月には大田区大森西4丁目に、待望のアンプ工場を建設しています。

そのいきさつについては後で述べるとして、話題をスピーカーの専門工場としての所沢工場建設の話に戻しましょう。

4階建ての音羽工場も、そろそろ手ぜまになりはじめましたので、どこかに適当な工場用地がないものかと探していたのです。

候補地は沢山あったのですが、音羽の本社からあまり遠くではなく十分な敷地があってしかも労働力を確保できるところ、となるとなかなか条件に合いません。

そんな時に、埼玉県所沢市に1万坪弱の土地を、市の斡旋で買い求めることができたのです。

これは所沢市の誘致条例第一号ということになるのですが、西武電鉄新宿線・新所沢駅から、1.5キロメートルほど行ったところの、川越に通じる道ぞいです。

今でこそ工場や住宅がびっしり軒を並べていますが、当時は見渡す限り畑で、新所沢駅からでも工場がよく見えたものでした。その土地を坪2,000円から2,500円で譲り受けたのですが、現在の地価は当時の100倍以上にはなってるようです。ここに、建坪1,038坪の2階建ての工場を建設することになり、昭和35年(1960)8月に完成をみました。

その後、第二工場、第三工場と矢継ぎばやに増築を続け、昭和40年(1965)頃には月産250万本という、文字通りの量産工場に飛躍していったのです。

それでも、まだ敷地のおよそ半分は野球部のグラウンドなどに使用していました。

このように書いてきますと、いかにも順風満帆のように見えるでしょうが、必ずしもそうばかりではなかったのです。

昭和37年(1962)から38年頃にかけての業界は、さしものトランジスタ・ブームも、国内需要の一巡と輸出競争の激化から下り坂にさしかかっていました。

加えて白黒テレビもカラー時代への移行を控えて、その普及率も70%台に迫りそろそろ成長率に鈍化傾向が見えはじめていたのです。いきおいスピーカー業界も過剰在庫を抱える羽目になり、やがて底なしの値引競争に追い込まれていったのです。

最も小型の50ミリ口径のものを例にとりますと、とうとう50円を割って48円くらいにまで落ち込むという凄まじさでした。これではまるで商売になりませんから、当社でも生産を落とし、余った人手でグラウンドの草むしりをした苦い経験もあったのです。