回顧と前進

第13話 本社移転のあとさき

『松本望著「回顧と前進」』

「トランジスタ時代」来たる  ~ 小さな“図体”で大変革促す ~

ところで、昭和30年(1955)前後の電蓄用ハイファイスピーカーの分野では、競争相手がたくさんありました。

なかでも、大阪音響(現オンキョー)さんとは鎬を削る競争を行っていました。

お互いに自社製品の特長を宣伝し合ったものですが、どちらか一方が極端にいいということもなかったのです。しかし、大阪音響さんの五代 武社長は、さすがに松下電器の出だけあって大阪商人です。商売がお上手なのです。


5階建て工場が完成した昭和31年の音羽工場全景

当時、原価が同じぐらいの商品でも「オンキョー」のものは、当社より3~5%ほど高く売られていました。つまり、当社の商品は、同じタイプのものなら「オンキョー」よりも3~5%安くしなければ売れないということです。

この3~5%の差は、そのまま純益に上積みされるのですから大変な違いになります。

いつの間にそうなってしまったのかはっきりしないのですが、とにかく市販品では大阪音響さんの勝ちです。

しかし、東京という地の利を得て、セットメーカー納めの量産ものでは儲けさせてもらっていたのです。

昭和30年も過ぎますと、やがてトランジスタ・ラジオの勃興期を迎えることになり、急激にラジオのパーソナル化が進み、それまでの“一家に一台”から“一人に一台”へとキャッチフレーズも変わっていったのです。いきおい、スピーカーの需要も急増し、当社も一段と量産に拍車をかけなければならなくなりました。

そこで、私は昭和32年(1957)5月の電子工業視察団による渡米を前にして、量産工場を建て替えることに決めたのです。

すなわち、昭和23年(1948)に建てた音羽の第一工場を四階建て、延べ400坪の本格的な鉄筋コンクリートづくりに建て直そうという計画です。

さて、先立つものは資金です。工費は2千7百万円ほどかかるのですが、テレビに無駄金を注ぎ込んだ直後でしたから、手元に余裕のある資金はありません。そこで一策を考えついたのです。

たまたま、住宅公団にツテがありましたので、なかば無理を承知に融資を打診してみたわけです。

案の定、社員寮など住宅にする資金なら貸せるが工場では駄目だという返事でした。

それなら、3~4階を社員寮にするからということで、どうにか長期融資を受けることに成功したのです。

さっそく建築にとりかかり、竣工したのは昭和33年(1958)1月のことでした。

同時に、大型の社員寮が完成したことで労働力の確保も楽になり、まさに一石二鳥の効果があったのです。

1~2階の工場には、当社が独自に開発した最新式のコンベヤーシステムを導入して、組立て一貫作業を可能にしました。その量産メリットは、私の予想を遥かに上回るものでした。

昭和33年9月期の決算をみますと、資本金は1千5百万円でしたが、税引利益はなんと4千1百万円にも達しています。

しかも、これは貸倒金の1千3百万円を差し引いての話です。

ちょうどその頃は、真空管式からトランジスタ式への転換期に当りましたから、真空管式のポータブルラジオメーカーの倒産があちこちで出ていたのです。

時代の寵児、トランジスタも出始めの頃は不良品が多く、石そのものの歩留りも悪かったものですから、商品的にも大変不安定でした。そのためトランジスタの採用になかなか踏み切れず、出遅れたところが倒産していったのです。

いつの時代でも技術革新は古いものから新しいものへと変革を求めていますが、トランジスタほど小さい“図体”ながら大きい変革を業界にもたらしたものは過去の歴史ではありません。

そんな中で、ソニーさんはまさに“一人野を駆ける”の観がありました。

そのソニーさんに先導されて、わが国のトランジスタ・ラジオは、やがて世界をも席巻してしまうことになったのです。

しかし、これにはフォスターさんの小型スピーカーやミツミ電機さんのポリバリコンなども、その裏方さんとして大いに貢献したことを忘れてはならないでしょう。